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岩泉線(いわいずみせん)

2017.9.15

執筆者:岸岡健太(岩泉町在住)

 

 

(岩泉駅:2007年8月)

 

2014年に廃線となった「JR岩泉線」は、宮古市の「茂市駅」から岩泉町の「岩泉駅」を結ぶ38.4kmの路線でした。

 

晩年は「日本一の赤字路線」という名誉ある(?)名前を頂いていた岩泉線。険しい峠や深い森、のどかな山里を走りながら、小さな集落と町を結んでいた岩泉線。その在り方は、合理化の進む近代社会の中で、非効率的にも見えました。しかしながら、かつては地域の産業を支えた確かな存在意義があり、さらには高校生の将来の夢を運び、沿線の風景に溶け込む鉄道は旅人に感動を与えてきました。

 

 

そもそも、なぜこの地に鉄道が敷かれたかと言えば、岩泉町にあった小川(こがわ)炭坑から産出する粘土や木炭、枕木などの資源の物流が大きな目的で、軍需的な背景もあったと言われています。当初、国鉄「小本(おもと)線」と呼ばれていたこの路線は、盛岡宮古間を結ぶ「山田線」の「茂市(もいち)駅」から、太平洋に面する岩泉町小本をめざして昭和16年に着工。戦前から戦後にかけて段階的に延伸開業しています。

 

1957年に開業し終点となった浅内(あさない)駅前には、いまも「日本通運」の名前がある建物が残っています。この遺構からもわかるように、浅内は当時この地域の一大交通拠点でした。岩泉の特産品でもある木材や、短角牛はここで鉄道に乗り、全国へと旅立っていきました。また、岩泉や田野畑などの鉄道の玄関口として、ここはバスへの乗り換え地点でもありました。谷あいの集落は、当時賑わっていたことでしょう。

 

(浅内駅:2012年10月)
 

さらに、1972年には岩泉町の中心地「岩泉駅」まで路線は伸び、このとき路線名も「岩泉線」となりました。開業効果で龍泉洞への観光客などで沿線は賑わいました。しかしながら、時代は高度経済成長期、都市部への人口集中が進み地方の人口は急速に減少、岩泉駅から先、小本方面には調査こそされたものの工事が始まる事はありませんでした。

 

(岩泉駅:2007年8月)

 

また、開業効果も一時的なもので、多くの国鉄ローカル線と同様に、利用者の減少が始まりました。国鉄末期に全国で多くの地方路線が赤字として廃止されましたが、岩泉線は鉄道廃止時の代替手段となるバスが走る沿線道路未整備という理由で、奇跡的に廃止を免れました。

 

1987年の国鉄分割民営化に伴い岩泉線はJR東日本になりました。もともと岩泉線は貨物輸送を主眼に建設されましたが、貨物輸送は鉄道からトラックが主流となり、1982年にすでに岩泉線の貨物輸送は廃止されていました。また住民や観光客の旅客輸送も、需要が無いわけではありませんが、岩泉⇔盛岡など近隣都市との間は国道の整備が進み、車やバスでの移動の方が圧倒的に便利になってしまい、利用者数は減り続けます。

 

一方で岩泉線は、沿線の大川地域などから、岩泉高校に通う高校生などにとって大切な足であることは変わりませんでした。最終列車が、岩泉駅を発車するのは19時半。部活帰りの高校生を乗せ岩泉線は走り続けていました。一日わずか3往復(岩泉町内)の内容は、通学の高校生に配慮したダイヤでした。

 

(浅内駅:2012年10月)

 

その一方でこのダイヤは、通学の乗客以外はたいへん利用しにくいダイヤでした。そうしたハードルの高さも手伝ってか、2000年代以降、秘境駅訪問家として有名な牛山隆信氏の著書の影響もあり、岩泉線の駅は「秘境駅」として注目されるようになりました。鉄道ファンを中心に「秘境駅」をわざわざ遠くから、列車や車で訪問する人が増えました。さらに2007年には岩泉線で走っていた希少な「旧型気動車」の引退に伴い、沿線は多くのカメラマンで盛り上がりました。こうした動きは嬉しい事ではありましたが、経営改善までは程遠く、「日本一の赤字路線」と言われる状態でした。

 

(全国有数の秘境駅「押角駅」。後述する休止期間中のためロープが張られているが、ロープの向こうの小橋を渡って、一段高いところがホーム。2013年4月)
 

ちなみに私は2006年に埼玉県から盛岡へ移住し、2012年に岩泉へ移住するまでの間、何回か岩泉線に乗る機会に恵まれました。なので、ちょうどこうしたブームを経験したことになります。盛岡からJR山田線で宮古に行き→そこから三陸鉄道で小本へ→バスで道の駅いわいずみ経由で龍泉洞へ→岩泉線に乗車→再び山田線に乗り換え盛岡へ。という1周旅行を楽しんだこともありました。海も、山も楽しめる最高のルートでしたが、鉄道旅行が好きでないと、ちょっとハードスケジュールだったかもしれません。

 

(龍泉洞 2007年1月)
 

完全な赤字路線にもかかわらず、奇跡的に運行が続けられてきた岩泉線の終了は突然でした。2010年夏に岩泉町内で発生した土砂崩れに列車が乗り上げ、乗客や運転士が怪我をする事故が発生しました。その日から運行は停止され、復旧の検討はされたものの、地質などから同様の災害再発防止が沿線の複数個所で必要とされ、そのため莫大な費用がかかるということが判明しました。
 
 

残念ながら、需要と費用のバランス面で復旧はかなわず、3年以上にわたり休止扱いとされていた岩泉線は2014年4月1日付で廃線となりました。現在は「E5系はやぶさ新幹線」風の東日本交通バスが、岩泉線の代わりに同じ地域を結んでいます。

 

(岩泉線の廃止を伝える岩泉町の広報誌「広報いわいずみ」2013年11月)
 

その岩泉線沿線はいまも変化し続けています。岩泉線で一番険しい峠を越えていた「押角トンネル」は何と現在拡幅工事中で、数年後には国道340号の新たな押角トンネルとして開通する予定です。

 

(拡幅工事をされ道路へと生まれ変わる予定の旧岩泉線押角トンネル 2017年9月)

 

(拡幅工事前の押角トンネル 2013年4月)

 

お隣宮古市の岩手和井内駅から、中里駅の間では、岩泉線レールバイクが運行されており、のどかな山里の息吹を感じることができます。産直とあわせてお楽しみください。
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そのほかの区間では、岩泉町を直撃した2016年の台風10号の影響や、線路の撤去工事、経年などにより、徐々に往時の風景は失われつつあります。岩泉線の息吹を感じるなら、お早めに!!

 


(立派な岩泉駅舎は2017年現在も残っており岩泉商工会などが入居して使用中)

 


(岩泉駅のホームも残っているが駅名票は外されており寂しげ)

 


(浅内―大川間の眼鏡橋は2017年現在も残っています)

一般社団法人 KEEN ALLIANCE
岩泉町移住コーディネーター穴田光宏