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私が岩泉に来たわけ その4

2017.7.18

執筆者:橋本充司(2012.10 移住)

 

 

ものすごく一般的な人間である私が岩泉に来たわけ。「震災とマッチング…ですね。」

 

 

岩泉町の中心地と言えるであろう場所にある商店街「うれいら商店街」に、2017年で創業185周年になる「志たあめや」というお菓子屋があります。そこの従業員の橋本充司と申します。わたくし、大阪府大阪市生野区の出身で、2017年で34歳になる、千葉県から岩泉に引っ越して4年半の男です。今回は、特に田舎暮らしを強く求めていたわけでもない、破天荒な人生を歩みたかったわけでもない、わりと普通な人間である私が岩泉町に来た経緯を「そこまで遡らなくても…」というぐらい遡ってお話ししたいと思います。

 

 


(素晴らしき志たあめやのメンバーであり新たな家族。カメラに一番近い位置で、且つ岩泉に来た時より20kg以上太ったせいで一番存在感があってエラそうであるが本人的にはいろんな意味で制御できない。)

 

 

岩泉のみならず、最近門戸が開きつつある地方での暮らしに興味がある「普通の人」の何か参考になればこれ幸いです。

 

【普通の幼少期から大学時代】
高校まではいたって普通。明るくも暗くも無い、いや、少し暗めの普通の子供だった。よくある無為な大学生活。大学が楽しくて遊び呆けたわけでもなく、むしろ大嫌いだったのに半年留年という親不孝を犯す。ごめんなさい。

 

 

【悩む就活期】
明確に入りたい業種があるわけではなかったので、何をしたいか整理してみる。『世に対して意味のある・貢献している仕事』という事を意識しだし、派生して自分なりに「カタチある物を世に提供して対価を得ている会社」に入りたいという考えを強く持つようになる。

 

 

【営業マン時代の気持ちの動き】
関西の会社に就職し営業マンとなる。配属先が東京となる。千葉県に住む。前項で考えた「カタチあるものを提供」という希望には沿ったものの、業態の関係で価格勝負、商品相場を知らない顧客を他社より先に掘り当てる、という営業の仕方が主であり、また色々考えだす。悪い意味で「足るを知る」を知らない人間だと自覚しており、それが自分の嫌いな所でもある。

 

『本当の意味で相手に喜んでもらえて、それで対価を得られて自分もうれしい』という仕事が無いものかと考えるようになる。自分なりに『町おこし』という物がそれに合致すると考えたが、自分で調べたり人に相談したりして、「自分とは能力のレベルがかけ離れて高い人たちが少数精鋭でやっている」、もしくは「小さな頃から頑張って勉強して官僚になった人がそういうことはやっている」とじわじわ知り、今回の人生ではあきらめざるを得ないと認識する。

 

 

【東日本大震災】
東京の営業所で遭遇。凄惨な被災をされた方には本当にもうしありませんが、首都高はじめ、揺れる周囲360°の巨大構造物を見て「逃げ場なし」と死の恐怖を感じる。

 

その後、映画のそれとしか思えないような事象、映像、話が飛び込んできて、それを知った人間として何かをしないとという衝動に駆られる。近隣の液状化被害に対するボランティアなど行ってみるが無力感に駆られ、とても熱く心優しい先輩と共に会社に何かさせたいとかなり反抗的に働きかけてみるが効果なし。むしろお咎めをいただく。しかしながら少しのお咎め程度で済んだのは、上層に対する当時の営業所長の影でのかなりの庇い、罪被り、フォローなどがあった事がだんだん見え、大きな感謝と謝罪の気持ちでいっぱいになる。ほんとうに感謝しています。そんな大人になりたいです。会社は動かなくとも、いつでも何でもいいので復興のお手伝いがしたいと考える。というよりむしろ、『ここまでの衝撃を受けておきながら復興に少しも寄与しない事の違和感』を感じながら過ごす事になる。

 

 

【いわて復興応援隊への道】
2012年初夏、週6、7で通う定食屋(生姜焼き定食と、から揚げ定食と、定食に付く豚汁がほんとにやばい)にて新聞を見る。給料は決して良くないけれど、住居も手当してくれる、被災地での復興支援兼町おこしのお手伝いの仕事という「復興応援隊」なる物を岩手県庁が企画したという記事が、目に飛び込む。恥ずかしながら仕事にグロッキーだった当時の私の中で、「仕事を辞めたい」「世の為」「町おこし」「復興のお手伝い」という物がつながった。また、「発災後すこし経ってボランティア熱が冷めた頃こそ手伝いが欲しいのではなかろうか」という自分なりの考えにも合致する時の経過もあった。

 

会社の昼休みに誰もいない部屋に行き、募集が終わっている恐れもあったがこっそり県庁に電話をかけ、ねじ込んでもらう様に試験の段取りを進めた。なんだかんだあって、補欠ではあるが合格通知を得ることができた。人生においてのかなり大きな、勇気のいる転機になったその決断の決め手にした考え方は、『雇用される事、内容をゴールにするのではなく、自分の力をつける事をゴールにしよう。時代の変化のスピードが速い時代、今後雇用の事含め、社会がどう変わるかわからない。それならば自分の力を磨ける、かどうかはわからないがその可能性のある機会に出会えて、興味があるならば進みだした方が良いではなかろうか』少し長いがそういう考え方だった。

 

 


((いわて復興応援隊の二期生が入ってきた際、大槌以北に配属された二期生を和ませる会を当町「あっけら館」で開催。結局陸前高田からも2人来てくれた。)

 

 

【応援隊として岩泉へ】
県庁に雇用され、各地へ配属させるいわて復興応援隊。岩泉町役場経済観光交流課で観光の手伝いをして来いと見知らぬ「岩泉町」なる地へ。住居のあり方について、車中心の生活について、夜8時ぐらいの町の静かさについて、日本語としては知っているがニュアンスの違う方言について、仕事に対するスタンスの違いについて、同じ苗字が多すぎることについて、多い苗字が複数あることについて、たくさんのカルチャーショックを受ける。知人が確実にいないこの地で馴染めるかの不安がかなりあったが、「一年間はどんな誘いも断らない」という岩泉町でうまく過ごすためのセルフ修練内容をある程度全うできたこともあり、みなさんに良くしていただく。一人行動をこよなく愛する私にとっては一大決心であった。
また、たくさんの人と関われる役場に配属されたこともうまく過ごせたかなり大きな要因であるのは間違いない。

 

 


(口笛奏者の柴田晶子さんを招いて龍泉洞洞内・商店街てどの蔵コンサートを実施した際の懇親会)

 

 

【観光、町を元気に、志たあめや】
仕事では主に役場観光課の業務のお手伝い。徐々に定例になかった仕事を作る様に動く。その中で、『岩泉の発展を考えると、龍泉洞に来た人を町内に流すように工夫すべきではないのか?』という考えが自分の主たる考えの一つになる。そういう考えで動くものの成功することはほぼ無く、周りの理解も得られているとは思えない中で心はポキポキと音を立てつつも、ただその考えは自分なりに持ったまま業務に当たる。その当時戦友的に同じ思いで業務に共に当たる機会が多かったのが志たあめやの娘である現在の嫁さんである。

 

 


(いわて復興応援隊時代の最終年の半年間は龍泉洞事務所に席を置いて冬季誘客対策のお手伝いをしにいったつもりが、この素晴らしいメンバーを振り回したり世話になってばっかりだった。)

 

 

4年半で応援隊を辞し、志たあめやに混ぜてもらう。志たあめやに入る事もかなり大きな、最後の最後まで答えの出ない悩みだったが、『嫁になる人の家をもっと良くなるように手伝うのは至極自然な事ではないのか』という発想を背景に決断した。自画自賛ではあるが、色々考えて過ごす4年半があったおかげで「色んな物の考え方」を自分のスキルとして得られたつもりでいる。とはいえ、それらを武器にしながら志たあめやで頑張ろうとは思ったものの、イベントの手出しなど、こんなにも前職のままの様な動き方になるとは想定していなかった。台風10号でも計画?の大きな狂いが生じた。

 

 


(商店街の若手を集めた行った「うれいら商店街のっとり計画」の第一回目の終了時、応援してくれた人たち向けに発信する用に撮影した写真)

 

 

それもこれも新しい家族である店の人たちの、温かい、大きな器のなせる技…というより、寛大さにかまけてなし崩し的に自分の判断で店の事を全然していない結果である。ごめんなさい。これからは志たあめやにもっと直接的に寄与する動きを心がけようと思います。という事で長々と書きましたが要約すると『志たあめやをよろしくお願いします!!!』という事です。